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2010年01月27日

となーす映画評「トワイライトゾーン/超次元の体験」




スピルバーグ監督による第2話が絶品です。
これ、観るの3回目くらいですが、
私は3回とも号泣です。

スキャットマン・クローザースのだれにも真似できぬ名演。
そして
ジョン・ウィリアムスの音楽が本当に上手いタイミングで観るものの琴線に触れる。

もう、スピルバーグの思うがまま、されるがままに泣かされてしまう。
こんなに『優しい』映画はほかにあるまい。

やっぱりスピルバーグはいいなあ
このころのスピルバーグにはやることにブレがない。

スピルバーグの数ある作品の中でも
私はこれをべスト3本の中に挙げるだろう。
名演出にひたすら酔わされます。

しかし見る度に思うのだが、
この『トワイライト・ゾーン』は4本のエピソードから成るオムニバス映画。
スピルバーグ作は2番目のエピソードなのだ。
それがあまりに傑作なので、続く三番目、ジョー・ダンテ作のエピソードが完全に割を食った形になっている。
全然頭に入って来ないのだ。


そんなこんなで、
久々に観る映画っていうのは、
前回観たときより面白くなかったりすることも多いので、
この『トワイライト・ゾーン』もこわごわ観始めたんですけど、
以前観た時以上に傑作でした。


posted by となーす at 03:38| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ映画(おすすめ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月25日

となーす映画評「クローズZERO」



不良高校生映画。
と言っても
そんなに殺伐とした感じもなく
スポーツ感覚のケンカが何度も繰り返される
ソフトな青春映画です。

相変わらず好きな作家ではないので、
最初の何分間かで観るのをやめようと思っていたのですが、
不覚にも最後まで観てしまいましたので、
思いたったことをいくつかメモしようと思います。




映画とは何か、というと、それは
お祭りである。
三池映画における映画の定義はまさにこれしかない。

三池の映画、というのは
誰を主演にして、何を原作にすれば、
制作費を集めて、
お祭りが出来るか、
ただそれだけを四六時中考えた末の作品である。

三池の映画を見る、という体験は
要するに
お祭りのシステム化
というのだろうか、
三池が発明した、というか、思いついた
“お祭り”の大量生産の方程式、を
ただ見せられている、ということとイコールなのである。

表現、とか、面白い着眼点、とか
そういうものを三池の映画から探し出そうとしてもムダ。


さらに今回の『クローズ乙ERO』でハッキりわかるのは
三池の映画はすでに、
現実の世界との接点を持っていない、ということ。
おそらく接点を持つ必要などない、とある時点から悟ったのだろう。

お祭りにはエロとバイオレンスがあればそれで良い。

私は
この、「クローズZERO」を観て
『あースカッとした』
『ストレス発散できました』
とかいう感想を抱ける人が信じられない。

面白い、と言ってる人がまあ、けっこうな数いるんだろうし、
ま、それはそれでいいんでしょう。

私的には
もういいから若い衆に映画を撮らせてやるために、その手腕を発揮する、とか
そっちにシフトしてほしい
君の映画は金太郎飴だからもういいよ

以上







ラベル:クローズZERO
posted by となーす at 05:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本映画(おすすめしない) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月21日

となーす書評「心では重すぎる」



平成10年連載、というのだからもう10年前の小説だ。

そのころから気にかかっていた小説で、
いつかよみたいと思っていた

読み始めて
3分の1くらいで、
なるほど
今のこのタイミングで読めたのが、ベストなんだな、と個人的なことで申し訳ないが、そう思った。

いや、
いい小説ですよ、本当に。

作家、大沢在昌自身にとっても
たぶん、だが特別な作品なのだろう、と思う。

力のかけ具合が
絶妙というか、

作家の送りたいメッセージが
実にいい気持ちの強度で伝わってくる。

この作家の作品は
代表作「新宿鮫」シリ一ズを始め
何作か読んでいるが、
この小説ほど、
大沢在昌の人となりが伝わる作品もないように思う。

一言で言うなら、
この小説は『職業論』だ。
そして、秀逸なのは、
職業と『心』の密接な関係を解き明かそうと試みている点だ。

これを探るのが
「私立探偵」だというところがよい。


アメリカ版のハードボイルドの亜流などでは決して、ない。
「私立探偵」の立ち位置のオリジナリティの高さにまずは、深く感心した。
和製ハードボイルドの定義もしくはその存在意義、の追求に多大なるエネルギーを投入した結果得られた、この著者なりの八ードボイルド論がここにある。
この一点だけでも
『心では重すぎる』は読むに価する。
特に会話が素晴らしい。
会話が素晴しい、ということは大人の読み物としてクオリティが高い、ということだ。

と、ここまでが
小説前半までの評価だ。

しかし、残念ながら
後半『死体』が小説世界に現われてからというもの、
世界が小さくなる。
もっとメンタルな部分での罪や罰を扱った小説だと思って読んでいたら、突然『誰が誰それを殺したか?』という謎の追求にスリ変えられたかんじだった。

幕引きの仕方を考えて、こうなったのだろうな、という気がするのだが、
「錦織」という美少女の後半での変貌ぶりなど、
読み手としてはガッカリだった。
あれでは芸がなさ過ぎる。

謎が解かれて、なお魅力が増す、というふうに書けなかったのだろうか。
前半の素晴らしい筆力を目の当たりにされているだけになおそう思う。
もう少し執筆に時間をかければ良かったのかも、という気もする。

しかし私はこの小説によって小説の面白さを再発見して、
現在は桐野夏生の『グロテスク』を読んでいる。
『心では重すぎる』の前半は素晴らしかった、後半部分を読んでそれが読み手の希望にそぐわなかろうがなんだろうが、
その魅力はいささかも減じない。

小説も映画も
魅力のある部分は強烈に輝く

私は映画のそういうところが好きだし、小説もまた、書き手の優れた才能が最も現れる部分と、そうでない部分があり、
優れた部分の魅力は、そうでない部分によって足を引っ張られるわけでもないことに気づかされた。
その意味で私はこの『心では重すぎる』に感謝したい。







posted by となーす at 06:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月17日

となーす映画評「GOEMON」




実は、私はけっこう紀里谷の映画を観るのは好きである。
真面目な映画ファンからはあまり好かれていないようなのは知っているが、
しかし紀里谷の映画には“紀里谷の気持ち”が画面のすみずみにまで行き渡っているのは間違いない。

それは観ていて気持ちの良いものだ。

誠実な愛が注がれた映画を観るのは何であれ楽しい。
例で挙げるのもナンだが、三池崇史の映画より面白いのは間違いない。


紀里谷の映画は
『物語』の力を信じようとするひとりの男(紀里谷)のドキュメンタリーのようなものなのである。
ここが紀里谷の映画の最大のポイントで、このことをわかって観ないと、面白さは半減する。

大袈裟なセットや衣装はまさに、
彼が信じようとする『物語』の強度を高めるために、毎回過剰に投入されているのである。

しかし、紀里谷の映画は、そうした装飾物を全部取り除くと、実に脆弱な物語しか持っていない。
前作『キャシャーン』にしろ、この『GOEM0N』にしろ、
なんと線の細い物語であろうか。


そこが“哀しい”のである。
紀里谷の持つ、この“哀しさ”が皮肉にも彼の映画の“最大の個性”になっている。
宇多田ヒカルはまさにこの部分を愛したのだろう、と私は密かに思っている。

前作『CASHERN』のラストで宇多田の歌声が流れて来たとき、
男の“哀しさ”を丸ごと支える母性を感じて、この2人の関係を本気でうらやましい、と思ったものだ。

紀里谷が『物語』を信じようとしていて、
しかしその紡ぎ出す『物語』が貧弱である事実を
私たちは果して笑えるだろうか?

私は笑えない。

私自身、彼の歳と近いからかも知れないが、彼の戦いの“内容”がすごくよくわかる。


『GOEMON』に出てくる登場人物たちはみな現代語をしゃべるが、
それは上に挙げたような理由で、当然の事なのだ。
誰のための物語か?を考えればそうなる。


そんなわけで、
紀里谷の映画はそれなりに見応えがある。
積極的に観たいと思わせる作家ではないが、観始めるとついつい観てしまう。

と、今回は、紀里谷映画を擁護してみた。



さて話は変わるが
私はどうも奥田瑛二が好きではないようだ、ということが、この映画を観てはっきリわかった。
この映画では秀吉を演じているのだが、
この人のことを芝居が上手い
などと言っている人が
本当にこの世にいるのか?と思ってしまう。

どうもこの人は、何を演じていてもピントがずれている気がするのだ。
そのピントのずれ方は、彼と仲が良いと言う片岡鶴太郎にそっくりで、
このふたりが演じる役はいつも“血が通っていない”
目の前で起こる現象に対して、素直なリアクションで芝居をするのではなく、
いつだって“こう見せたい”が先に来る。
そんな芝居だ。

ちなみに奥田はかつて、
北野武の映画に出演したいと言って
武に直談判しに行ったというエピソードがある。

そこで武に「役者はバカが多いから使えない」と言われ、
「じゃあコメディアンならいいのか?鶴太郎と漫才やるから見てくれ」
となり、
実際ネタを作って見せたらしいのだが、
ご存じの通り武映画で奥田の出演作は今まで一本もない。

奥田と鶴太郎の漫才でビートたけしが爆笑する姿を想像できるかい?

できるあなたは
母性の発達した素晴らしい人だ。
















ラベル:GOEMON
posted by となーす at 07:49| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ映画(おすすめ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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