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2010年10月07日

隣の家の少女(映画版)





「ガルネク」(映画版)を観ました。

途中で気づいたけど、これは、映画のはじめの方で
隣のババア、ルースがどうやって生活費を得ているかの説明がないと、だめだね

というのも、
ルースというバパアが、いちいち説教が長いのである。

その、長い説教の先にエスカレートし過ぎの折檻があるわけだが、
そのー歩前の説明がないと
ただ長い説教の理由が、『原作にそう書いてあったからです』にしかならない。

小説版の方に
そのへんの説明があったかどうか忘れたが、
そこは〈一人称小説〉であったから気にならなかった、ということだろう。

しかし映画として映像化されると、その説明が必要になる。

実際映画になったものを観るまで気づかなかったのだから、映画と言うのは難しいものだね。

小説の筋は全く変えていないので、ほぼ順番どおリシーンが展開さ
れるが、
小説にない大胆な改変があるのが冒頭とエンディング。
冒頭に50歳になった主人公が轢き逃げに遭った浮浪者を必死に助けるシーンがあるのだ。

このオープニングは原作にない映画版のオリジナルだが、良い滑り出しだと思った。
浮浪者の汚い口に人口呼吸を施す、この男は一体何者だ、と思わせる。

しかし
なかなかやるじゃないか、と思ったのは、そこまでで、
ラストまで見た後では、このオープニングの価値もだいぶ暴落した。

どんなラストかは実際に見てもらって失望してもらうとして

要は、この映画監督は
『過去の過ちは挽回出来る』
という立場にこの映画を立たせてしまっているということがわかるのである。

そのために用意されたオープニングであったことが判明し
ガッカリさせられるのだ。

ケッチャムの原作を読んだ方なら判るだろうが、
どうあがいても挽回出来ない、という場所に閉じ込めたからこそ
この物語は怖いのだ、
という所をこの監督は判っていない。

完全な読み違えである。

この読み違えにより、
この映画は、原作を読んで感動した一人の才能のない映画監督の『日記』になり下がる。
「僕はこの小説が好きだ。
でも僕はこんな風に読んだ。」
と、いうね。

これなら論じるに値しない。
何しろ才能のない人の『日記』かもしくは『感想文』と言っていいしろものなのだから。
このDVDにはオーディオ・コメンタリーというのも副音声でついているのだが、
それを聞くと、コメンテイター2人の会話もこの映画と関係ない話の方が多かった。
まあ、上のような理由でそれも当然、といったところだろう。
2人とも別にこの映画に特別な思い入れがあるわけでもない。

ま、そんな映画でした。

私も特に書くこともないのだが、
少くともルース役の女優はビッグネームをキャスティングする、くらいのことはして良かったのではないか、とは思う。
「キャリー」の映画化で、デ・パルマは悪魔のような母親役をパイパー・ローリーに演じさせていたではないか?

それくらいのセンスがあってもいい。
脚本も演出も全てが生真面目なこの映画には、
結局のところどこにも生命が吹きこまれていないからだ。

ビッグネームをキャスティングするべきだ、と言うのは、
すぐれた俳優は、脚本の不備を見抜くからだ。
与えられた役とセリフを身にまといつつ、観客に説明を加えることができる。
演出とは違うチャンネルを持っていて、観客にメッセージを送れる、とでも言おうか、
ま、思いつくまま挙げると、
「フラガール」の冨司純子の名演とか、か。
残念だが、この映画のルース役の女優さんにはそれが出来ていない。

まあ、いろいろあるんだが、
結論として
やっぱり観てて腹が立つのは、
どうして、こんなに何も持っていないやつが、映画を撮っているんだろう、ということだ。
こんな、他人の書いた作品に自分の感想をのっけるだけの映画がどうして存在するのか全く不思議だ。
中身がからっぽにも程がある。


まあ、そんなわけで、

これは『残らない映画』です。














ラベル:隣の家の少女
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