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2010年11月30日

狼の死刑宣告


タイトルが「狼の死刑宣告」
ロゴデザインがブロンソン主演「狼よさらば」そっくり。
原作も同じブライアン・ガーフィールドだ。

ブライアン•ガーフィールドの小説は全く読んだことはないのだが、この「狼の死刑宣告」
は「狼よさらば」と同じ話だ。

家族をチンピラに殺され、男が復讐する、という話。
「狼よさらば」では、真犯人を特定することが出来ず、手当たり次第にチンピラを殺していく、というのがひとつのオリジナリティだったが、今作ではチンピラはあっという間に特定される。
息子を殺したチンピラグループ相手に、主人公は戦争を始めるのだが…。

この映画自体はさほど人気も出ないだろう。さっきも書いたように、「狼よさらば」のストーリーのオリジナリティを取り去ってしまえば、普通のアクション映画だ。

しかし、私はアクション映画を観たいと思ってこの映画を借りて観たのではない。
私が観たいのは最初から『ジェームズワン監督作品』だ。

この人は良い。
結論から言って、凄く才能のある作家だ。

アクション映画だから中盤と終盤に大きな山を作るのが常套であるのだが、そこを『静』と『動』にしているところも良いのだが、
もっと良いのは、家族の描き方で、
主人公の家族はチンピラグループに皆殺しに遭うのだが、最終的に次男だけが奇跡的に命を取りとめる。
それを
主人公が次男に対する愛情に気づくための旅であったかのようにこの作家は描くのである。
演じるケビンべーコンも素晴らしい。
この映画を特別なものにしているのは、
起こる出来事に対する“反応”の仕方を徹底して追いかけている点である。

病院から抜け出した主人公は貯金を全て降ろし武器を買い揃え、最後の戦いへ出向く。
ふと気づくと、頭に手術のあとの縫い目があり、その周りの髪の毛が剃られている。
ええい、ぜんぶバリカンで剃っちまえ!
この辺りから映画は大きく躍動する。

ラスト
復讐をやり遂げた主人公は
かつて幸せだったころの家族の姿を収めたホームビデオを観る。
“反応”して“選択”した結果、ずいぶんと遠いところに来たなあ、と。

しかし、事件の渦中ならともかく
すベてが終わった後は、迷いも不安もなく、主人公の心はホームビデオを観たからといって大きく揺るぎはしないのである。
ただ、受け入れるだけ、
一連の出来事の中には次男への愛に気づけた、という“果実”もまた、あるのである。

無言で映画は幕を下す。

ジェームズワンは良い。




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2010年11月29日

デッド・サイレンス


ひとネタ映画。

「ソウ」の脚本・監督のコンビによる2作目、ということなのだが、
「ソウ」に似た感じで選ばれた題材なのだろう。

あまり良い出来ではない。
私がこの監督に期待しているのは、こういうのじゃないんだよなー、と思いながら観ていたら、最後にアッという結末が。

でも、「アッ」と思う程度ですよ。
そういう映画です。

ソウU〜X





1作目がすごく艮かったものだから調子に乗って2〜5作目まで“大人借り”してしまった。

ワクワクしながら2作目のDVDからセットして観始めたのはいいが、いきなり監督名が違う。

あちゃ一
2作目から交替しちゃったのね

ガックシ来た。
せめて2作目くらいは、オリジナルの脚本、監督コンビに撮らせてやれないもんかね。

てなわけで、冒頭からだいぶ期待値が下がった状態でスタートした。

内容が書けないのは残念なのだが、
(いや、特に残念でもない)監督が交代して、結果は想像通りにクオリティが落ちた。

どんなふうに落ちたのか。
いうまでもなく「犯行」に“哲学がない”
これに尽きる。

パート2からパート5まで、すべてに共通する大きな間違いは、
ジグソウの哲学がつまるところ、「『本気で生きる』『真剣に生きる』とはどういうことか」を気づかせる点にあったのだが、
そういうところは跡形もなくなって、
純粋に犯人は誰か、を、中心的なテーマに据えてしまった点だ。
真犯人を隠すためのギミックだけで90分かそこら時間を埋める凡百の作品になり下がっている。

それから
だんだん「必殺!」とか「八ングマン」とかみたく、法で裁けぬ悪党がゲーム参加者に選ばれていくのも、とんちんかんな展開だ。

「時間制限」も「肉体の痛み」も、哲学に乗っ取ったゲームだからこそ意味あるパーツになる。

ジグソウの哲学を一作目から忠実に続編を作るなら当然、同じ地下室で別な人物が囚われている、というところからスタートすべきだと思うが。

2作目以降は本当に、どうでもいい話に終始する。
TVシリーズの「24」だとか、あのへんのノリとー緒。

むしろ、1作目の裏メッセ一ジをきちんと捕らえて生まれてきたのが日本のマンガ『カイジ』とかだったりするのではないか(え?どっちが先なの?)






ラベル:ソウU〜X

2010年11月28日

ソウ


はずかしながら、『ソウ』初体験である。

2004年制作とあるので、もう7年も前の作品な、わけだ。

しかし『ソウ』を実際観なかった私でも、この7年の間、『ソウ』に影響を受けた作品が山のように出現してきたのを目の当たりにしてきたわけで、
世間に対する、この映画の神通力の方だけを延々見せられつづけたあと、ようやくご本尊を拝むことが出来た、というところだ。

もし、この映画を今だ観たことのない人がいたら(もちろん、そんな人はほとんどいないだろうが)観ないと損。
7年経ってから観た私はもう充分お釣りが来るくらい損している。

映画「ソウ」は奇抜なアイディアを武器に成り上がろうともくろんだ若手映画作家の粗削りなホラー作品でありながら、
実は最も評価されるべきは、そのオリジナルなメッセージの内容にある。

先行する『ユージュアル・サスペクツ』や『セブン』などの作品群に最大のりスペクツを送りつつ、さらにこの2作の良貿な部分をろ過して抽出してみせた感じだ。
この2作の中にある先輩作家たちが気づかなかった“隠れた”メッセージを掘り起こした、とでも言おうか


素直にこれはすごいです。いい映画です
なにより映画の発するメッセージが素晴らしい。

『多くの人は人生をムダに過ごしている』

これは犯人のセリフだが、映画自体のメッセージとこのゲームマスター=犯人の犯行動機はー致している

だから『犯人当てゲーム』などと称して
意外な犯人を登場人物たちの中から探し出してきてムリヤリ当てがうような駄作ミステリー群(例:映画「推定無罪」)と違い“犯行”そのものが“犯人”の人となりを表現している、という点でも評価できる。


実はラスト近くの大団円の辺りで「おやっ」と思わせるところがあるのだが、これがこの映画の本質をよくしめしているので取り上げたい。

(ここからネタばれ)
主人公の医師の携帯電話が鳴る。
足枷で繋がれているので、あと数cmというところで手がとどかない。
映画のだいぶ最初の方で
地下室に閉じ込められたもう一人の男が同じようにあと数cm先にあるものをつかもうと苦労しているのを見て、「シャツを使え」とアドバイスしているのである。
このことを観客は思いつく。だからクライマックスのいよいよ、という段になって同じシチュエーションが現われたとき、「シャツを使え!」と思うのだ。
しかし、彼は足首を切断する答えに、飛びつくのである。
さらに、医師であるために、2人分地下室に用意されたノコギリが鎖は切れないが、骨は切れるものであることに気づいたのも彼だ。

ゲームの中には少しだけ“遊び”、がありゲーム参加者の意志が入るようになっているのである。

そこから結末まで一気に流れ込むが、
最後の最後、ゲームを仕組んだ犯人がどこにいたか、ということも実は、上のようなゲームの特性から、『極めて納得のいく』場所、なのである。






ゲームマスター=犯人は、
囚われの身となり鎖で繋がれてしまうことを、
ガンを突然宣告されたり交通事故に巻き込まれたりするのと等しく、人生に現われる予期せぬ苦難の一つであるかのように思わせる。
「生きる意志」が肉体の痛みを越えなければ生還できないゲームを設定するのである。


犯人“ジグソウ”の、この哲学こそがこの映画の魅力だ。

映画を見ているこちらは
「真剣に生きる」とはどういうことか、をゲーム参加者(ムリヤリ参加させられてるんだけどね)たちの姿を見て、考えさせられるのである。

このメッセージが最初から最後まで貫かれていて、実に観応えのある、大人の鑑賞に耐えうる娯楽映画の傑作になっていた。

いやー、良かった!












posted by となーす at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ映画(おすすめ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月20日

チャンス



「チャンス」を初めて観たのは高校1年の時だ。
以来ずっと、私にとって最愛の映画の1本である。
なにしろこの映画には他の映画にはない独特なニュアンスがある。


この映画はそもそも原作を読んだピーターセラーズがこの企画の発案者であった、というのをどこかで読んだことがある。ということはやはりジャンルはコメディな、わけだ。

ではギャグのひとつひとつが面白いかというと、全くそうではなく、どちらかというと、あまり笑えるところはない。
コメディ映画であるのに、『笑かす』ことに重きを置いていないふしがあるのである。

この映画のセラーズの役づくりはリアリズムに徹していて、まるで、松本人志のコントのようでありながら、
しかし、「笑い」につながるような方向にはあえて向かわない。
理由はおそらくこの映画を制作する最初の段階でコメディ映画としてしか、このキャラクターを成立させえなかったからで、
実際この映画を制作したかった動機は、やはり、主人公チャンスと富豪ランド氏の奇妙な友情を描くことにあったのだと思う。

今回改めて何年ぶりかで全部観たのだが、
あれからずいぶんと時も経ち、こちらもえらく年令が行ってしまった。
だから、かどうかは分からないが、
ランド氏がチョンシー・ガーディナーにぞっこん惚れる理由がとてもよくわかったのだ。
それが今回の収穫だった。

この物語は、まさにランド氏がこの変な男を好きにならなければ動き出さないのであるが、
ランド氏の“誤解”、チョンシー・ガーディナーその人に対する“過大な評価”
こういう行き違いによって“笑い”を生みだす、という構造自体はよくあるパターンなのだが、ランド氏が見抜く、チョンシー・ガーディナーの“価値”や“希少さ”がだんだんとこちらに分かってくるところが他のコメディとの大きな違いなのである。
ランド氏を演じるメルビン・ダグラスの
その説得力の高い表現力に負うところ大、である。


ラスト近くで、
チョンシー・ガーディナーを不審に思う主治医のリチャード・ダイサードが独自に行った調査をランド氏に報告しようとするシーンがある。
“目をさました方がいい、あの男はそれほど大した人間じゃないぞ”、と

さも重大なことを報告しようと一歩ふみ出したダイサードをランド氏は制して言う。
『彼にはどこか信じられるところがあるんだ』

見ている観客にとっては、
実はチャンスはただのおばかさんであるということはわかっている。
ダイサードと同様、こんなに信用して大丈夫か?という思いがあるのだ。
しかし、ランド氏にしてみれば、チョンシーのような男を今までみたことがなかったのだろう。
チョンシーという男の、誰にも影響を受けないふるまい、を心から羨しく思っている。そのへんの表現が実に見事なのである。
アメリカ人の俳優は本当に、こういう表現が上手い。メルビン・ダグラスの芝居を観ているだけで涙が出てくる。チョンシーを見つめる目や二の腕をがっしり掴んだりするしぐさとかを観ているだけでだ。

ランド氏の視点から、この映画を観ていると、
人というのはどんなふうな在り方であろうといいのだ、と言う思いにとらわれてくる。
多くの人が自分自身の人生や他人の人生に干渉しすぎて、不安に陥ったりプレッシャーに健康をやられながら生きている。
じつにムダな所業だとランド氏は悟ったのだろう。
上述の台詞の後に続くのが
「彼と会ってから死ぬことがそれほど深刻だと思わなくなった。」なのである。

この映画、『少年は虹を渡る(ハロルドとモード)』を撮った監督の作品だなあ、とつくづく思った。

「さらば冬のかもめ」とか「800万の死にざま」とか最高に良い映画をいくつも残してこの世を去ったが、この人の代表作はこの「チャンス」と「少年は虹を渡る」の2本で決まりだ。



posted by となーす at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ映画(おすすめ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

パラノーマル・アクティビティ



まあ、結論から言うと
そんなに怖くないし、面白くもない

正直言うと感想は『長い』だ。

何故かと言うと
『怖い』のレベル(位相)が変化しないからだ。

ホームビデオで撮った映像、ドキュメンタリーぽく、という演出が、リアルであると同時に単調、退屈である。

ただ、特筆すべきは、DVDに特典としてついている稲川潤二のオーディオコメンタリーで、私は通しで一回観たあと、稲川コメンタリー版を観たのだが、これがすごく面白い。
この人が「ああー、これあるある、本当にこういう音なんですよ。」とか言ってくれるので、霊感のない人にはすごく勉強になる。
映画自体のクオリティーの高さがちょっと分かる、と言う意味で、この映画を作った人、観る人両者が得をする、という、まさに『特典』であった。

そして映画の終盤近く、稲川マジックが起こる。
すげえぞ、この人。
「今、見えましたか?いま、いましたよね?」
そう言うのだが
これはなにしろあくまでも“ドキュメンタリー風”に作られた作品である。
部屋の中には何も入ってきてはいないはずなのである。

このくだり、こええぞー。














インランド・エンパイア





デヴィッド・リンチ作は結構観ているはずだが
あまり印象に残る作品が少ない。

数年前に観た『マルホランド・ドライブ』は
大変おもしろく観た記憶はあるのだが、
どこがどうおもしろくて、
そして
どんなストーリーだったかについては
まるで記憶にない

リンチの時画でどれが一番面白かったか、と聞かれたら
私は『エレファント・マン』といつも答える

リンチの作品に対する私の関心度は、だいたいこんなところだ。

いやー、しかし、この「インランド・エンパイア」は
この程度の関心度のやつが、最後まで見通すのはかなりの体力を必要とする作品だった。

これこそ『ビデオ日記』のノリだ。

あの、よく友達んちに遊びに行くと、
『先週だれそれと旅行に行ったんだけど、そん時のビデオ観る?』
とか、そういうことあるでしょ?

この上映時間の長さは、
まさにあのノリ。
途中、何度も熟睡した。

『これぞ、リンチ!』とか言う人もいるんでしょうが、
私はこの人のこの作品も、『エレファントマン』とメッセージの内容としては変わらない気がした。

あのね、この人は、
人間の内面で起きることと、物理的現実世界で起きることとの関係性に興味をもっているんですよ、結局。
でも、それを描くのに『エレファントマン』くらい衝撃的で
世界中の人たちの価値観をまるごとひっくり返すほどの題材にこの人はめぐり合えていない気がする。


この「インランド・エンパイア」の
かいつまんで内容を説明すると、こう。

ある一人の女優が、久しぶリに大きな役をもらう、
彼女がその役に没頭していくのをきっかけに、
役柄と現実の境目がわからなくなっていく、

と、こういう映画なんですが、

きちんと、筋道を立てて、観ている人に
説明しようという気もまるでなく、直観的に
撮りたいものをただ撮っている、
しかも、思わせぶりなハッタリ演出が大好きと来ている。

まさに、デビッドのことが好き、デビッド最高!という人以外にはもう全く、どこが面白いのかさっぱりわからない、という作品に仕上がっていた。

前作、『マルホランド・ドライヴ』もたしか、女優が主人公だった気がするので、
まあ似たようなストーリーだったのだろう。

そのときはたしか、ナオミ・ワッツが主演だったから、
演出も多少、女優寄りで分かりやすくつくっていたのかもしれない。

映画、というのは、被写体に対する愛情で大分仕上がりが変わるものなので、
この冗漫な出来、は、主演女優に対する愛情の素直な反映、のような気がしないでもない。

というのも、
エンドクレジットになって、この映画が途端に生命を帯びるのを見たからなのだが、
特筆すべきはそのシーンだけ。
後は、
酒でも飲みながら脚本を書いていたのではなかろうか、冴えた表現も特には見つからなかった。






イントゥ・ザ・ワイルド



惜しいなあ。

TSUTAYAをさまよっていて
『監督ショーン・ペン』の一文で、衝動的に借りて観ました。

ああ、実は俺は監督ショーン・ペンが好きなんだな、と何故か初めてそこで気づかされた次第です。

ショーン・ペン監督作と言えば「インディアン・ランナー」のあの素晴らしく美しいオープニングシーンが即座に思い浮かぶ。
何ともいえぬ孤独感と優しさにあふれたシーンで、「映画!」を高らかに宣言していた。


たぶんもう一度、あのシーンに触れたい、そう思ったのだと思います。

まあ、そんな感じで見始めたら、
ほんとに期待にそぐわぬ孤独で優しい映画でした。
監督ショーンペン“印”が見事に確立していました。

そしてシーンの組立てなどの技術面も
「インディアン•ランナー」のころよりだいぶ上手くなっていて
途中、何度も「上手い!」と膝を叩きました。
特に会話のシーンがいい。
ダイアローグが上手い。
演じる俳優も無名、有名を上手く配置して、元気なシーンを無名俳優にやらせるあたりや
終盤近くには意外なビッグネームを配置するなど、
映画作法が固まりつつあるようで、そういうのは観ているだけで感動する。


でもインディアン・ランナーもそうなんですが
観ていて作り手の気持ちがとても伝わる
良い映画なのですが、やはりこの人に欠けるのはストーリーテリングの才能といいますか、骨の太い物語、なんですよね。

インディアン•ランナーも、シーンのいくつかは思い出せるのに、どんな話だったかはまるで思い出せない。

ショーン・ペンの人となりは映像美だとか、そちらの方に色濃く反映されていて、ストーリーの方にはあまり投影されていない、印象があるのです。


この映画も
たとえば、ラスト近くになってくると、
映画がバラバラと解体してくる。

映画の3分の2くらいまでは心が一つになっていたものが、バラバラとくずれてくる。

なんでこんなラストを用意したんだろうか、と不審に感じながら観ていくと
最後にその謎が判る。

なーんだ、これは実話だったのか、と。


事実の方を尊重して映画が細くなってしまった、
そういう結末でした。

だから『惜しい』なのです。



アレックス



なんだか最近、暴力的な映画ばかり観る羽目になっている。
別に仕事で観ているわけじゃなし、
すきなもんを借りて観ればいいじゃないか、なのだが、

映画のDVDについてだけは
直観的にただ『観たい』と思ったものを借りて観ることにしているので、
「最近の映画はむかしとちごうて暴力的なのが多いのう」
ということなのではなく、
私のチョイスが暴力的な傾向になっているだけなのだ。
しかし私は本来暴力的な人間ではないので、観る映画が暴力的なものに偏っているとしたらそれは、何かの宿命のようなものによって“選ばされている”のだろう。
そうだ。そうに違いない。

私の意志とは関係なく選ばされているのだ。

さて、
そのような“導き”に従って借りて観たDVDの中には
観て良かったものもあればそうでないものももちろんあるが、
必ずしも観た映画すべてについて、こんなふうに文章を書いているわけではない。

観たあと何か書きたくなったら書く。
ここに文章を載せていなくても観ている映画はある。
だから結構な数『暴力的』名映画を実は観ている。
でも格別、書きたい衝動が湧かなかったものが多いのである。

たとえばこの間はスターウォーズのエビソード2と3を観た。
シリーズの他は観ていたからこの2本だけだ。
しかし観たけど、誰かにこの映画のことを話したい、という気は起こらなかったのである。
世界に熱狂的なファンを持つこのシリーズのことだから、よく観れば私の知らないご馳走がひょっとしたら本当は眠っているのではないか、と思いながら観たもんだから
観る前からだいぶハードルは上がってはいるのだが、
率直に言ってスターウォーズの世界から私は
『ワクワク』する対象を見い出すことが出来なかった
「スター・ウォーズ」が何故、『暴力的』なのかって?
だって「ウォー(戦争)ズ」じゃん




ま、それはそれとして、
この『アレックス』だ。

この映画は、逆に巷間伝わっている評価以上に見どころのたくさんある、素直に“良作″であった。

リアルな暴力描写で世間の関心を買う。というのは、サム・ペキンパーのころから映画の世界では常套手段だが、この映画も、約9分間に及ぶモニカ・ベルッチのレイプ・シーンがある、ということと“やり過ぎで不快極まりない残虐な暴力シーン”があることを映画の“売り”にしている。

実際、レイプシーンも暴力シーンも不快極まりなく出来上がっている。

しかし、この映画は、そのセールスポイントである2シーンのインパクトを高める努力をしつつ、それ以外のシーンも大変クオリティが高いのである。


これはあまり他の批評でとりあげられていないのだが、
この映画、
ワンシーンワンカット、長回しがとても多い映画で、
件のレイプシーンも、行為の最中はずっと切れ目のない長回しで、カメラを固定したまま撮られている。

このシーンで
あまりにも長く男の俳優に組みしだかれて、乳とか触られているモニカ・べルッチの姿を見ているだけでこちらはいたたまれなくなる。
しかし、どうやら、そういう感情を観ている側に起こさせることこそ、この長回しの狙いであるようなのだ。


さらにこの映画は起こった事件を逆の時間軸で並べていくという凝った構成を採用している。


レイプ犯を無残に殺して逮捕される主人公を含む男2人のシーン。

レイプ犯がいつもいる地下バーに潜入する2人。

タクシーを運転している主人公ともう一人の男。

タクシーの運転手の中国人をタクシーから引きずり降ろすシーン。

といった具合に。

つまり、
映画を観ている側には、この次に何のシーンが来るか、わかっている。
(この構成のおかげで、観客はこの映画への関心が途切れることなく集中して物語を追うことができる。これはなかなかの発明である)
だから、このレイプのシーンでも、
ここでレイプされるのだ、ということがわかっている状態でシーンが始まるわけだ。
しかしだからこそレイプそのものを描写する、ということから作り手は『逃げられない』ということを意味する。
ガン、と殴られて気絶してブラックアウト、みたいな手をこの映画の作り手は使えないのである。
そういう手を使って「描写」から逃げるとその途端、この映画は観客からの支持を決定的に失う、ということになる。
この辺りの緊張感は物作りの醍醐味である。

さあ、実際はどうか、
この映画は9分の長回しで、いや、というほどレイプを見せつけるのである。

私がこの映画を評価するのは、
まさにここからで、
この『逃げない描写』でレイプシーンをたっぷり見せられたあと、
観客はどうなるかというと、
これ以降ごくごく自然のなりゆきとして、この被害者の女性の喜怒哀楽に注目するようになるのである。。

このシーンの前までの法則にしたがい、
レイプ前の生活がこの後描かれて行くのだが、
彼女が屈託なく笑う姿や、幸せな顔をしていると、ホッとする。
それをレイプシーンと同じ長回しで撮影し、
俳優たちにアドリブ0Kで演じさせているのである。

まあ、
後半の幸せ感の描写は素晴らしい。
ぜひ観ていただきたい。
カットの切れ目がないことにしばらく気がつかなかった。それほど、俳優の動きや感情とカメラが一体化しているのである。

この映画は、時間の進行を逆にする、という凝った構成を採用している分、物語自体は全く複雑ではない。
だからシーンごとに何を表現したいのか、がハッキリわかる。
ゆえに、スタッフとキャストの心が一つになれたのだろう。

そこでどんな効果が現われたのか、というと、
人生における場面場面がもたらす感情、
憎しみから悲しみ、幸福感まで、
それらの感情を映画を観ている観客と共有することが可能になった。


さらに
この順序で見せられているおかげで登場人物たちよりちょっとだけ、この「幸せ感」がかけがえのないもののように思えてしまうのだ。

そう考えて観ると
なるほどこれはフランス映画なんだな、と思った。
この時間感覚、これはフランス映画ならではだ。

それとやはり観ていて思ったのは、
きちんと逃げずに描写をする、ということの力である。

この
「逃げずに描写する」
が出来ていれば、
次のシーンにも
客はしっかりついて来る。
そういうことを改めて教わった気がした。

そのへんが、『残る作品』『残らない作品』を分ける境目なんだろうという気がした。



追記
ちなみに『アレックス』のDVDは現在廃盤になっているみたいだ

おおーい
『残って』ねーーじゃん!

















ラベル:アレックス
posted by となーす at 02:16| Comment(0) | TrackBack(0) | その他外国映画(おすすめ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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